78年前の今日(8月19日)、本市の笠沙町片浦で終戦後の悲劇が起きました。
当時本市管内では笠沙町片浦の崎ノ山に片浦基地が造られ第124震洋隊有田部隊が配備されておりましたが、その他、野間池に第130震洋隊橋本部隊、坊津町坊ノ浦に第123震洋隊近藤部隊も配備されていたと聞いております。
(野間池と坊津町坊ノ浦どちらも基地を造る前に終戦を迎えました)
「震洋」は太平洋戦争中盤以降に開発・実践投入した水上特攻兵器でベニヤ板と改造した車のエンジンで造られた長さ5mほどの小型ボートの艇首に250kgの爆弾を装備し、体当たりすることで敵の船舶を撃沈させるものでありましたが、粗末な造りであったことから、訓練中に沈没したり出撃しても敵艦に辿り着かなかったりと、多くの命が戦わずに失われたとも言われております。
またこの「震洋」という名称は明治維新の船名から命名したもので、「敵艦を撃沈して太平洋を震撼させる」という意味もあったようです。
当時片浦基地には総員232人、震洋艇5型26隻、魚雷艇2隻が配備されておりましたが、昭和20年4月に基地建設を開始してから終戦まで、一度も震洋が出撃することはありませんでした。ところが終戦直後の8月19日に震洋艇の信管抜き取り作業中に誤って暴爆、数艇が爆発し8名の尊い命が失われた悲しい悲劇が起きてしまったのです。
以前はこの戦死された8名の命日に有田部隊の会を中心に建立された「片浦基地の碑」で慰霊が行われておりましたが、高齢化により会での慰霊は数年前に終わり現在は地元有志による慰霊へと移っていったようで、私も南さつま市に住む者としても、この悲劇や戦争の記憶継承に何か役に立ちたいと思い慰霊をしてまいりました。
先輩議員に場所は聞いておりましたので「片浦基地の碑」へ迷うことはありませんでしたが、御供えも清掃も先におそらく地元の方が草払い等をされており、ほとんど綺麗にされておりましたので、私も僅かな時間でありましたが戦没者の冥福を祈りながらそれにならいました。
今日であれから78年たちましたが、今後もこの戦争の悲惨さを伝えるこの場所を大切にし、次の世代へ伝えていく協力をしていかなければと思いながら加世田へ戻る、そんな平和を願う日でありました。