震洋~片浦基地之碑~

8月19日は、本市の笠沙町片浦で「震洋艇」の信管抜き取り作業中に悲劇が起きてから80年になります。

今年も既に碑の周りは地元の方が綺麗にされており、これからも戦争の悲惨さを伝えるこの場所を大切にし、私たちが次の世代へ伝えていかなければと思いながら、静かに手を合わせてきました。

(以前はこの戦死された8名の命日に有田部隊の会を中心に建立された「片浦基地の碑」で慰霊が行われておりましたが、高齢化により会での慰霊は数年前に終わり現在は地元有志による慰霊へと移っていったようです。)

「震洋」は太平洋戦争中盤以降に開発・実践投入した水上特攻兵器でベニヤ板と改造した車のエンジンで造られた長さ5mほどの小型ボートの艇首に250kgの爆弾を装備し、体当たりすることで敵の船舶を撃沈させるものでありましたが、粗末な造りであったことから、訓練中に沈没したり出撃しても敵艦に辿り着かなかったりと、多くの命が戦わずに失われたとも言われております。

また、この「震洋」という名称は明治維新の船名から命名したもので、「敵艦を撃沈して太平洋を震撼させる」という意味もあったようです。

そして、当時本市管内では笠沙町片浦の崎ノ山に片浦基地が造られ第124震洋隊有田部隊が配備されておりましたが、その他、野間池に第130震洋隊橋本部隊、坊津町坊ノ浦に第123震洋隊近藤部隊も配備されていたと聞いております。

(野間池と坊津町坊ノ浦どちらも基地を造る前に終戦を迎えました)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です